「春日宮天皇」は、歴代天皇として数えられる存在ではなく、万葉歌人としてよく知られ、天智天皇の第7子である「志貴皇子(しきのみこ)」の御陵となっています。志貴皇子は、壬申の乱などの影響で皇統が「天智系」から「天武系」に移ってしまったこともあり、長らくの間朝廷の要職などに就くこともなく、また716年に没するまで生涯に渡り皇位に就くことはなく、むしろ「石ばしる
垂水の上の さわらびの 萌え出づる春に なりにけるかも」などの美しい自然情景を詠う万葉歌を残した「文化人」として知られた存在になっています。
奈良時代後期になると、再び皇統が天智系に戻り、こちらも田原エリアに御陵を有し、志貴皇子の第6子である「
光仁天皇」が実際の天皇として即位することとなりました。その際には不遇であった志貴皇子に「春日宮御宇天皇」という称号が追贈されることになったため、その結果現在こちらの御陵も「春日宮天皇陵」と呼ばれるようになっています。