日本書紀によれば
応神天皇5世の孫(曾孫の孫)で父は彦主人王、母は11代
垂仁天皇7世孫の振媛である。皇后は21代
雄略天皇の孫娘で、24代
仁賢天皇の皇女であり、
武烈天皇の妹(姉との説もある)の手白香皇女である。継体には大和に入る以前に複数の妃がいたものの、即位後には先帝の妹を皇后として迎えた。これは政略結婚であり、直系の手白香皇女を皇后にする事により、既存の大和の政治勢力との融和を図るとともに一種の入り婿という形で血統の正当性を誇示しようとしたと考えられる。また、大和の入るのに20年かかったとされ、このため天皇家は一度断絶し、継体天皇が軍事力によって新王朝を樹立したとの学説もあります。
宮内庁の治定は受けていないが継体天皇の真の陵とする説が有力な古墳・
今城塚古墳(いましろづかこふん)が北東にあり、発掘調査が可能な大王陵で、造営時の6世紀前半では最大級の前方後円墳があります。