天皇陵とは、歴代天皇のお墓のことで、エジプトの「王家の墓」のように一か所に集まっているところもありますが、朝廷にゆかり深い近畿地方に点在しています。
天皇陵というものは、ずっと朝廷によって管理されていて、その陵墓がどの天皇のものか明確だと思われていますが、少なくとも古代の天皇にはそれは当てはまりません。
律令制度が崩壊していき、武士が台頭してくると、朝廷は力を失うようになりました。そのことで朝廷のある京都から遠く離れた大和や河内の陵墓に関する記録も記憶も失われていきました。
歴代の天皇陵が特定されたのは江戸時代です。最初に取り掛かったのは五代将軍徳川綱吉です。中心的な思想は儒学でした。儒学は社会をピラミッド型に考える思想で、その頂点に君臨するのが天子(皇帝)です。それは日本では天皇でなければならないが、幕府は天子の位置に将軍を置くことで儒学の基本思想としていました。しかし、天皇の存在をないがしろにしては、おかしいと考え、荒廃したままの古代天皇陵の修復と特定を命じました。その後、八代将軍徳川吉宗まで続きました。
当時は、現在のような学問レベルはなく、発掘調査をしたわけでもなく、推定や伝承などによって特定していました。
その後、明治以降も宮内省、宮内庁と引き継がれました。そして、「祖先の墓を荒らす」との理由で、考古学による発掘調査も禁じられてきました。
しかし、第二次大戦後、日本占領軍司令官マッカーサーの命令で米軍がアメリカの考古学者とともに2日にわたり仁徳天皇陵を発掘し、その出土品はひそかにアメリカに送られたとの巷説があちます。その中にユダヤと日本の皇室の関係を証明するものがあったとのことですが、真意のほどはわかりません。
実際に、繼體天皇陵については、宮内庁は大阪府茨木市の太田茶臼山古墳としていますが、文献や発掘調査から大阪府高槻市の今城塚古墳こそが真の繼體天皇陵であると考えられています。
「陵墓(りょうぼ)」とは、皇室の方々の墳墓の総称です。陵墓は「陵(みささぎ)」と「墓」の2つに大きく分けられます。
・「陵」は天皇・皇后・皇太后・太皇太后の墳墓
・「墓」はそれ以外の皇族を葬る墳墓
を指します。この定義は戦後の皇室典範によって定められたもので、それ以前の区別は上記とは異なるところもあります。
御陵のことを、山陵(さんりょう)、陵(りょう、みささぎ)とも言います。